『 熊本くんの本棚 ゲイ彼と私とカレーライス 』










12月13日に発売された、

キタハラさんの『 熊本くんの本棚 ゲイ彼と私とカレーライス 』(KADOKAWA)。








2019年、カクヨムWeb小説コンテストの大賞作品。わたしも購入しました。









表紙のイラストがすてき!


色と、デザインも。



帯をとったら、熊本くん裸?!と、ちょっと思ったけど(んなわけない)、大丈夫だった。







(あんしん)










たとえば、


この世界に闇や悪というものがあるとして、


それに向きあわざるをえなくなった時、方法としては3つ。




光になること。

その光ですべてを照らしてしまうこと。闇や悪(と、便宜上よばれるもの)を、光や愛で内包、統合してしまうこと。




闇や悪を(徹底的に)みないようにすること。

厳然たる意志をもって、注意をそらし、じぶんの世界から「なかったこと」にすること。誰になんと言われようと、じぶんと世界を死守すること。





そして、


もっともリスキー、かつハードルの高い方法として、



闇や悪(と、便宜上よばれるもの)を、正確に、描ききること。











その作業は痛みをともない、踏みまちがえると生死にかかわる。高い技術をひつようとし、覚悟を要求される。




正確さが命。

けっして的を外してはならない。1ミリでも外せば、そこから闇に浸食される。あくまでも、製図のようにうつしとっていかなくてはならない(エネルギーとして)。



うつしとる、ということは、いったんじぶんの中にそれを入れる、ということ。で、出す。




この世界でどうありたいか、という意志とともに。




すると、世界は変わる。













『 熊本くんの本棚 』は、それをやり遂げた小説なんじゃないかな、と思う。



圧倒的な文章力と、緻密な構成で。



読んでて具合がわるくなるのも当然だ(Web版の途中でわたしは寝込み、ケロリンをのんだよ)。











つけくわえられた最終章で、


ああ、熊本くんじしんもやり遂げたんだ、と思った。



『この涙はいつの私が流したかった涙だろうか』(p269)



みのりちゃんにも、世界にも、それは伝わったんだろう。



過去は現在を愛しにくる。それは可能だ、と思う。










世界の奥底にはフィールドがあって、すべて繋がっている。


アクセスするには、ひとりで歩かなければならない通路があり、ところどころ、じぶんのスピリットとイコールの鋳型が用意された関門がある(くぐるとき、もっとも暗く痛い。じぶんを正直にみつめなければ、通り抜けられやしないから)。



小説でも、パンを焼くでも、子どもを育てるでも、掃除をするでもなんだっていいのだと思う。なにかを突きつめると、ひとは、そこへ向かうよう促される。



ひとりでしか通れなかった(はずの)道なのに、たどり着くと、そこには誰もがいる。すべてがある。闇や悪のラベルが、そこでは、そっとはがれ落ちることを許される。





それを希望とよぶなら、



そこへのアクセスのしかた、道中のけしきが、この小説には描かれている(と、わたしは感じる)。





たくさん売れると思う。べつの言語に翻訳されても、おもしろいはず。











2019年、この小説が世に出た、というところに、あたらしい風を感じる(問題作、って、最高の賛辞だよね)。




で、つぎにカレーを食べるとき、




やるよね。





通過儀礼?!(冗談。でもいっかいやると思う)






すばらしい小説でした。